Smart Design Association Co.,Ltd 代表取締役, 福岡移住計画主催

須賀大介

1976年 茨城県・水戸市出身

明治大学商学部を卒業後、株式会社システムインティグレータへ入社。WEB系のエンジニアとしてキャリアをスタート、その後、WEBコンサルティングの草分け的存在である株式会社キノトロープ勤務を経て、2002年に「株式会社スマートデザインアソシエーション」を立ち上げる。大手企業を含むWEBマーケティングコンサルティング、制作・運用を主業とする一方で、地域資源を活用した加工品の販売など地域と都市を結ぶ場づくり事業を東京下北沢でスタート。

起業して10年目に起きた東日本震災を機に自らの働き方や暮らし方をゼロから見直し、2012年、活動の拠点を福岡に移すと同時に家族と共に福岡市に移住。自身の移住の体験も含めて、福岡移住者に向けた居・職・住の情報発信や、コミュニティの場を創出する「福岡移住計画」を立ち上げる。その後、地方・都市圏の遊休不動産を活用したシェアスペースの運営を平行して事業化し、RISE UP KEYA、SALT、HOOD天神、ダイアゴナルランTOKYOなどを展開。

現在は、より価値観の近い人や場所を繋げ、働く選択肢をつくる「+WANDER」事業に力を注いでいる。

https://s-design.jp
https://fukuoka-ijyu.jp
https://pluswander.com/

 

Feel the roots, "Introduction".

26歳で起業してひたすら働き続けた東京時代、東日本大震災で感じた様々な危機感、新たな可能性を求め日本全国を移住先として検討した結果、最も魅力を感じたのが福岡だったという。

地方と都市を行き来しながら人と人、人と企業、人と地域を結びつける様々なプロジェクトを生み出す活動が話題となる。その福岡の可能性を世界に発信する須賀さんにお話しを聞かせてもらった。(上画像提供:SALT)

Karnel 編集部

 

Interview

まずは学生時代から起業までの道のりを教えてください。

「当時」を謳歌した学生時代

大学への進学を機に東京へ出て、商学部で会計学を学びました。今の僕の原点にもなっているのですが、大学一年制の頃、大学の仲間と「THE PLANET PLAN」と言うウェブマガジンを立ち上げて、デザイナーやクリエイター、アーティスト、起業家などを取材してウェブに記事としてアップするみたいなことをやっていました。今思うと、、、今やっていることと同じですね。(笑)

WINDOWS3.1から98になったぐらいの時期で、ようやくYahoo!が頭角を現しはじめインターネット通信が盛んになっていました。アクセス数やトラフィックを伸ばすのは今ほど難しくはなく、記事をアップしたらすぐ検索の一位になるような状態でしたよ。

とはいえ当時はパソコン一台が30万円ほどした時代で、今ほど簡単に手が出せない代物でした。どうにかこうにか手にいれてインターネットで日本中の人たちと交信しましたが、驚くほど世界が広がっていくことに興奮したのを覚えてます。その頃、ロンドンに「TOMATO」というクリエイティブ集団がいるのを知りました。グラフィックデザイナーや、デジタルクリエイター、アーティストや弁護士など、いろいろな職種の人々がプロジェクトベースでチームを組成していて時代の大きな波を感じていましたね。一方国内では山一証券がつぶれたりして、日本型の年功序列の会社組織の在り方に黄色信号が点り始めていました。それを見ていて、学生ながら「将来仕事やプロジェクトはこうやって個々の能力を活かしながらつくるべきだ」と思いました。ピラミッド型の会社組織に入って働くよりもいろいろフリーで活動していく人たちが集まってプロジェクトが生まれていくような働き方をしたいなと。

 

卒業後、いくつかの企業を渡り独立へ

大学卒業後は「システムインティグレータ」に入社しインターネット日本初のEC パッケージ開発チームに配属されました。そこではORACLEなどのデータベースを活用したシステム開発を学びましたね。今では当たり前になりましたが、Eラーニングなど大学・企業が遠隔教育を提供するようなプラットフォーム開発もやっていました。

3年ほど働きましたがユーザーインタフェースやデザインに興味があったので退職し、次はWEBコンサルティングの草分けである株式会社キノトロープの門を叩きました。そこではWEBを使ったマーケティングを学ばせていただきました。

ですが早々に「独立したい」という思いが強まり、26歳の時に「スマートデザインアソシエーション」を一人で立ち上げました。当時は先ほどお話しした学生時代の「THE PLANET PLAN」を形にしたような会社にしたいと考えていて、アソシエーション型、プロジェクト型で事業を行っていこうと想定していたことから社名を「スマートデザインアソシエーション」としました。

 

独立後、ガムシャラに働いた10年がもたらしたもの

そこからガムシャラに働いて、だんだんと有名なクライアントの仕事も手掛けることができるようになり、気が付いたら10年経っていました。

その間はプロジェクト型を実践していたわけではなく、正社員を40名近く抱え、受託代理店から降りてきた仕事をこなしていました。というのも、当時は今でいうところのノマド型や在宅など、距離が離れた場所で仕事を行うネットワーク型は信用が得られず、信用を得るために社員を雇って母体を大きくしていった結果、組織が自分が思うよりも早く肥大してしまったのです。結局、今度はその母体を維持する為の仕事をやらないといけないサイクルに陥ってしまっていて、、、まあ、一言でいうと、大変でしたね。(笑)

しかしながら東京の仕事はとても刺激的で、当時は紙からWEBへの移行を始める人達がどんどん増えていました。技術も様々移り変わっていき、Flashを駆使したWEBサイト制作が盛り上がったりサーバーサイドの進化も目まぐるしく、新しい技術を次々に取り込みながら自分たち形にしていくという、それ自体はとても面白かったことを覚えています。

一方で、完全にプライベートが失われていました。子供が生まれても、なかなか家に帰ることができなかったし、帰っても深夜。寝顔しか見られませんでした。

 


福岡への移住の経緯について聞かせてください。

スマートデザインアソシエーションをスタートさせてからちょうど10年。会社の今後の方向性を模索している時期でした。

その頃に東日本大震災が起きました。

その経緯があり、社員の中から「被災地を支援したいから茨城などで働きたい」「沖縄や北海道に移住したい」といった要望が出てきまして、良い落としどころを模索して出てきた答えが「一旦、アソシエーション型の原点に戻ろう」でした。

また、震災は自分自身にも変化をもたらしました。

「妻や子供に会えなくなるかもしれない」といった「家族を失う可能性がある」恐怖の実感から、東京にしがみついて働き続けることを人生の天秤にかけて考えるようになりました。

結論、とても「バランスが悪いな」と思ってしまったのです。

 

家族と社員との狭間で

社員を雇用する責任がある社長という立場でしたから、そう「思ってしまった」と言わざるを得ない状況でした。それは、これから会社を続けていくうえで、まずは自らがエネルギーを取り戻すことに重きを置くことが重要だと感じたからです。当たり前ながら会社も社員もどちらも大事ですが、嘘をつきながら生きることはできない。自分自身がまずは家族と一緒にいる時間を大事にしたいと願い、社員にも家族を大事にしていってもらいたい。そういった会社にしていきたいと考え、その思いを正直にスタッフへ話しました。

スタッフとは何度も話し合いを重ねました。当然反対も出て、「社長が移住するようならついていけない」と辞めていく社員も出ました。

およそ半分のスタッフが退職したと記憶してます。

それでも半分のスタッフが残ってくれて、東京と地方の分散型でやっていこうと決めました。

 

福岡との出会い

それから東京と二拠点で活動できる場所を探し始めました。当初は長野や山梨などを候補に上げていたので、その近辺をウロウロと回っていました。

とはいえ「これだ!」という土地に当たらず悩んでいたとき、偶然、福岡を地図上で見る機会がありました。

第一印象は、自然と都市のバランスが良い。

少し調べてみると飛行機は便が多くあり、主要都市へのアクセスもいい。また都市の中心である天神から自然豊かな糸島エリアまでたった30分で行ける点にも驚きました。アジアとの距離も近いですし海外発展にも繋げやすい。

ひょっとすると「福岡」ならばアジアとのビジネスもできるポテンシャルを持っているのではないか、と感じました。

その好条件を胸に、妻とGWシーズンに糸島へ旅行に行きました。色彩豊かな海や山の素晴らしさに感動しましたね。

ビジネスのポテンシャルと、自然豊かな環境。求めていたものが福岡にありました。

そうして、「ここで暮らそう」と決断しました。

それが今からちょうど5年前のことですね。

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今だから言える、福岡移住後の辛かったこと。

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