株式会社POPS クリエイティブディレクター、コピーライター、プランナー、 シナリオライター、コミュニケーションデザイナー
田中 淳一
1970年 宮崎県・延岡市出身
1993年、早稲田大学第一文学部演劇専修を卒業し、旭通信社(現アサツー ディ・ケイ)に入社。さまざまな大手企業のキャンぺーンを多数担当し、2014年10月退社。同年12月、Creativity for local, social, globalを掲げ、クリエイティブ・ブティックPOPSを設立する。全国各地の自治体やローカル企業のブランディングやプロモーションを中心に、大手企業やローカル企業のグローバルコミュニケーションなども手がける。Spikes Asia、NY festival、BDA、ACC賞、日経広告賞、毎日広告デザイン賞など国内外受賞歴、国際広告祭の審査員歴、各地の大学や公共機関などでの講演も多数。東北芸術工科大学非常勤講師。http://pops-inc.jp/
東京の広告代理店に務め、大手企業のCM制作などを手がけ国内外で高く評価されたクリエイティブディレクターが、一昨年に独立した。「会社にいたおかげで多くの広告賞を取ることができましたが、各地に行くと“ACCとかADCって何ですか? テレビのチャンネル?”って言われるんです(笑)」と話すPOPS代表の田中 淳一さん。これまでのクライアント案件を離れ、全国各地の自治体やローカル企業のブランディングやプロモーションを中心とした自身の会社を起ち上げた。ローカルの案件を取り組むようになったきっかけや、会社員時代の話、地元・宮崎県延岡市の思い出などについて、田中さんに語ってもらった。
プロフィールに肩書が多数ありますが、
特にメインとなるものはあるのでしょうか
基本的には、クリエイティブディレクターなんですけど、各地域でお仕事させてもらう時に、“クリエイティブディレクターって何ですか?”聞かれることがあるんです。まだ、コピーライターと言う方がそういう仕事をしていると伝わりやすいので肩書に入れています。元々はコピーライターをしていましたし、必要に応じて肩書どおり、いくつかのポジションで動くこともあります。
POPSの事業内容を教えてください
クリエイティブで地域をPOP(人気者)に!と活動しています。全国各地のブランディング、プロモーションといいますか、コミュニケーションプランニングをしたくて独立した経緯があるんです。現在、案件の8割くらいは地域の仕事をしていまして、北は宮城から南は沖縄までといった感じで、11以上の自治体のシティプロモーションなどを担当させて頂いています。自治体以外は、愛媛県の今治タオルのような地域の組合組織の商品開発も行っていますし、ほかには地場にある企業のブランディングやパッケージやネーミング開発、海外プロモーションなどを考えることもあります。
最近は、地域のプロモーション用動画の制作依頼が多く、今年だけで10本以上は作っていますね。そして、その動画をいかに届けたい人へ届けられるかといったPRプランニングもしています。動画は作ってみたけれど、そのままになっている地域もあり、それではもったいないので、東京(広告代理店)でやってきた経験を生かしてお手伝いさせてもらっています。
動画に限ったことではなく、全国各地で様々な良いモノ作りがされているんですけど、その伝え方が弱いような気がしています。日本人の気質みたいなところで良いものを作れば売れるみたいな感覚があるのかもしれませんが。伝えていく上でのストーリー作りが、地域だけではなく日本全体としてまだまだ上手くないと思うんです。変わってきたところもありますが家電にしても、日本はまずスペック重視といいますか。例えば、Appleにはジョブズが描くストーリーのようなものがありましたからね。
決して大手や東京でなくても、各地には良いものがあるので、伝え方さえちょっと工夫できれば、“陽が当たる場所”へともっていけると思うんです。
アサツー ディ・ケイの会社員時代は、
どのような働き方をされていたのですか
入社して30歳までは営業だったんです。大学時代は演劇専修という30人ほどしかいない学科で、卒業後は就職しないで映画監督などを目指す人、マスコミ関係へ就職していく人が半々に分かれていました。自分はコピーライターの“コ”の字も知らないような(糸井重里さんのことを、昔テレビで見た徳川埋蔵金の人くらいで認識していたほど*糸井さん本当にすいません、、)広告に対してリテラシーの低い学生だったんです (笑)。だけど、飽きっぽい性格でもあったのでCMや広告の会社だと、いくつもの仕事に関わることができるかなぁと安易に考え、広告代理店の営業を志望しました。
内定後に志望関係なくクリエイティブの適正試験がありなぜか受かったのですが、クリエイティブの偉い方から「君は営業志望になっているが、筆記試験に受かったけどどうする?」と聞かれ、何が評価されているとかも分からなかったし、何やるかも分からなかったので“営業でお願いします”みたいな(笑)。
その後、営業として仕事をしていく中で、コピーライターをはじめクリエイティブの方々と接するようになり、こういう仕事もあるんだということを知りました。そして、30歳の時にクリエイティブへ転部し、38歳でクリエイティブディレクターになったんですけど、その後は飲料メーカー、通信会社、ゲーム関係、大手の自動車やなど、数多くの大きな案件に携わらせてもらっていました。最初の頃は、大きな仕事を回し、有名なタレントさんを起用できるなど、ワクワクしながら、見たこともないようなCMを作ろうと夢中でしたね。
では、独立しようと思ったきっかけは何だったのでしょうか
徹夜して、企画して、コンペに出てというのを繰り返していると、“なんか世の中から浮いているんじゃないかな”と、自分の中でモヤモヤしてきたんです。いつまで、これを続けるんだろうと。
そう思っていた2010年くらいに、宮崎で口蹄疫があったんです。市役所に務める同級性が防護服みたいなのを着て車を消毒している中、自分はCMに起用するタレントさんのオーディションをしている…。何なんだろうなと。社会と自分のつながりはなんだろうと。“広告は社会の窓です”みたいなことを聞いたことがあるんですけど、本当に社会の窓なのかなって感じたんです。
そして翌年2011年に起きた、東日本大震災が決定的でした。瓦礫を片付けるなど力仕事のボランティアもできるんでしょうけど、そういう仕事をしている専門の方々がボランティアに行く中、僕らが培ってきてきた職能って何だろうと思ったんです。
そんな中、NHKの「どーもくん」などを手がけるアニメーション作家の合田 経郎さんが発起人となり、さまざまなキャラクターが手をつなぐ「てをつなごう だいさくせん」というキャンペーンをされているのを知りました。当初、インターネットだけでされていたので、もっと多くの方に観てもらえたらと思い、お手伝いさせてもらいました。
当時、まだ全線開通する前の三陸鉄道で、ポケモン、ミッフィー、ドラえもんなど多くの人気キャラクターが手をつなぐラッピング列車を走らせたり、槇原敬之さんが作ってくれた曲に合わせたアニメーション動画を作ったりしたんです。
そのラッピング列車を「まだかな、まだかな」と子どもたちが走るのを楽しみに待っているのを見た時、瓦礫の片付けなどは専門の方々には敵わないんですけど、コミュニケーションを生業にしてきた僕らだからできることもあるのではと思い、そこから各地に目を向けるようになり、独立を考えました。
「てをつなごう」ムービー
すぐに退職して独立されたのでしょうか
アサツー ディ・ケイという会社があったからこそ、いろいろな広告賞を取ったり、海外で審査員をさせてもらったりして、色々な経験や知識を身につけることができました。その職能のようなものが、全国各地にも求められているのではないかと思ったんです。そして、40歳の時に上司に“辞めたい”って言いました。その頃、僕は会社にとっていくつか大事な仕事をさせてもらっていたのもあり、「本気で、言ってんの?」って笑われたんですよね。でも、上司から「まず、地方の現状を知るためにも、全国にある支社と一緒に仕事をしてみては?」と言われて、ムッとしながらも“検討してみます”って一回取り下げたんです。今となっては、その上司にはものすごく感謝しています(笑)
それから、国内支社をまとめてる部署へ自分のプロフィールを持って回り、各地で仕事をするようになり4年ほど経ったところで再度会社に辞めたいと言ったんです。
それは、各地での実績もできてきたのもありますが、東京で担当する大きな予算の案件と、自分がしたい各地の少ない予算の仕事とを掛け持ちしていたため、会社が自分に求めるものとのギャップが大きくなったきたのを感じて。自分の志向もその頃は明確でしたし、会社にもこのままでは申し訳ないなと思ったからです。予算が5000万でも500万でも、アイデアを出したり、考えたりする過程は同じですからね。もちろん、制作にかける時間や、人材の数は違ってきますが。
今後、出身地の宮崎をはじめ、九州で手がけてみたい仕事はありますか?
九州では、これまでに沖縄県・今帰仁村の観光プロモーションや福岡県・須恵町の広報誌制作などをさせてもらいました。まだ、宮崎での案件はなかったのですが、ちょうど出身地である延岡市のシティプロモーションを担当することが決まりました。これから動画用の撮影が始まるので年内にはローンチされる予定です。先日、記者発表が延岡市であったのですが、なぜか自分も市長と一緒に出席することになり、その様子が地元のテレビなどで一斉に報道されていて驚きました! 地元では仕事をしてみたかったのですが、ある意味でプレッシャーですね(笑)。九州から世界を目指すブランドの開発のお手伝いとかしたいですね。
『Discover Suemachi』町政要覧など(福岡県須恵町)
『すごい! 鳥取市 100 SUGO! BOOK』(鳥取市公式フォトガイドブック)、『いまバリィさんぽ』(愛媛県今治市)、『トマトになった男の子』(みやぎ生協)
宮崎に住んでいた頃の思い出などはありますか
高校生まで延岡市で、浪人時代は宮崎市にいました。当時は、延岡から出たくてしょうがなかったですね。今でも覚えているのが、なんかの授業で「宮崎に生まれたくなかった人?」みたいな質問をされて、 “ハイッー”って手を挙げたんですけど、誰も挙げてないんです…。先生に「なんでだ?」って聞かれ、“アメリカ人に生まれたかったです”と答えるようなアホなやつだったんです、自分は(笑)。
いま思うと、その時から人に何かを伝えるということに興味があったのかなと。ただ、そういうのは宮崎ではなく東京に行かないと学べないのかなと思っていたので、早く田舎から出たかったんでしょうね。
地元を離れて大学へ行き仕事をしだして、宮崎や延岡に対しての想いが強くなっていったというのはあります。たまに、地元に帰った時の印象は、“変わんねーな”と思っていました。この変わらないということに、昔はもどかしく思っていましたが、今は変わらないでほしいなと思います。今の時代、変わらないということの価値の方が高いんじゃないかなって感じるようになりました。
最近は、全国をまわって仕事する時に“あるものを大事にしていった方がいいですよ”と話すようになりました。大都市にあって、その土地に“ない”ものばかりを探すのではなく、“これがあるじゃん”、“この場所にはこれがあり続けてるよね”ということの方が貴重であり、その地域にとっての財産だと思うんです。
全国各地で仕事をされていますが、印象に残っていることはありますか
北海道の利尻島近くにある初山別村へヒラメ漁をするおじさんの取材へ行った時、「おめぇの方が漁師みてぇな顔してんなぁ、すぐ働けるぞ」って言われ(笑)、あっという間に仲良くなって、あがったばかりのヒラメを食べさせてくれたんです。各地での、こういうコミュニケーションは心に残っていますね。結局、自分は、地方をなんとかしたという以上に、そこに住んでいる人達が好きだからやっているんだと思います。
それに、その土地で制作したものに対して地元の方が喜んでくれたり、感謝してくださったりするので、必要とされているんだと東京よりも感じますね。
各地に行けば、知っているおばちゃんやおじちゃんがいるみたいな、独立してからの2年間で第二、第三の故郷がいっぱいできました。虎ノ門でオフィスに篭っている時には、味わえなかったことを感じることができています。
携わった案件を通じて、伝えたいことはありますか?
案件によって仕上がりなど見え方は違いますが、東京から人を動かしたいというのはあります。僕も、その一人ではあるんですが、東京を目指して集まってきて地元に帰らなくってしまい、日本のバランスを崩しているというか、消えていく村落もあると思うんです。だから、僕の仕事をとおして、“自分の住んでいる街っていいとこだなぁ”とかが伝わり、その結果、地元から出て行く人が減ったり、戻ってくる人が増えたり、ほかの地域からやってくる人が増えるといった、“きっかけ”を微力ながら作っていけたらいいなと思っています。