合同会社visionAreal共同代表   

おきな まさひと

1982年 福岡県・久留米市出身

久留米の街で代々続く中華料理店の家に生まれる。高校を中退し、2年間東京へ行き社会を見ながら通信制で学ぶ。その後、タイを旅し帰郷後は飲食事業や、福祉事業立上げなどに関わり、2012年にvisionArealを立ち上げる。ほか、『mellicore co.working mama space』『Chietsuku,Pjt』『sora-iro cafe』『パパラフ』『協働CASEプロジェクト』など様々なプロジェクトの運営にも携わる。


 

福岡県久留米市を中心とし「親と子が共に育つ。そんな出来事づくり」をコンセプトにコミュニティーカフェの企画運営・イベント企画運営を行う合同会社visionAreal(ビジョナリアル) 共同代表のおきな まさひとさん。代表として務めるのは一つのみだが、いくつものプロジェクトに参画し、地元・久留米の街へ常に何かを仕掛け続けている。そして、「自分は人と人を事でつないでいるだけです」と謙虚に話す。今回、おきなさんに、街でイベントを始めたきっかけや、人とのつながりで広がっていく活動、街の将来像などについて伺いました。

 

まずは、代表をされている『visionAreal(ビジョナリアル)』について教えて下さい。

現在は合同会社としていますが、4年ほど前にイベントやプロジェクトを行う際に『visionAreal』という名で活動していました。その時から「親と子が共に育つ出来事づくり」をテーマに、久留米を中心にイベント企画・運営、コミニティーデザイン、プロジェクトデザイン、リノベーションなどを仕事にしています。

 

久留米の街に目が向くようになった、きっかけは何かあったのでしょうか。

生まれも育ちも久留米というのもあるかと思います。実家は、3世代前から続く老舗中華料理店で、その一世代前から久留米へやってきた老華僑なんです。小学生のころ、街で祭りがあって賑わう時は店が忙しくなるので皿洗いなど手伝いをしていて祭りどころではありませんでした。祭りの翌日、友人から「金魚すくいした?」などと聞かれ、「したした!」と子どもながらに合わせていましたけど、自分は手伝いをすることが誇らしいと思っていました。それは、仕事をしている“かっこいい父”のそばにいれるということ。兄弟とも暗黙の了解のような感じで、手伝うとかではない感覚で店に入っていました。今になってですが、お皿を通じて“街”を感じていたかのようにも思えます。

それから、17歳のころ、目的が見つからず高校を辞めて、東京へ行ったんです。通信制で学び、バイトを掛け持ちしながら貯まったお金で海外へ旅に出るような生活をしていました。3年ぐらいが過ぎたころ、家を継ごうかなと思い父に連絡したら、経営している中華料理店に動きがあるから帰っておいでとのことだったので帰郷したんです。家を継ぐといっても4人兄弟の末っ子なので、そんな大げさなことではないんですけどね(笑)。事業の動きというのも規模を縮小して、創業100年を迎えるということだったので、自分の目には退屈に映ってしまい、それから店の中から外(街)に目を向けるようになった気がします。

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実家の飲食業を通して“街”を感じ、“街”とつながっていき、その後はどのような動き方をされたのですか?

実家に入るよりは自分でやっていきたいと思い、2009年ごろ独立して中華をメインにした飲食店を始めました。当時、子どもと一緒に食事ができるお店がないなぁと思っていたので広々としたキッズスペースを設けたり、アイドルタイムには、お客さんがしたいと言ったことを徹底的にイベントにしまくったりしていました。毎日イベントデーと題し、ひと月31日間、毎日何らかのイベントをしたこともありましたね。お客さんが0人なんて日もありましたが、続けていくうちに“ヒットするイベント”が出てくるんです。そうすると、100人とか、お店では入りきれない人が来るようになり、公共のスペースに移って実施していくことに、そうなってくると少人数ではできなくなってくるので、他のお店の方と組んで協賛を取ってやっていくという感じですね。

 

本格的に活動の舞台が店の中から街へと移っていき、ある転機を迎えることとなった。

イベントを継続していると、使われていない百貨店ビルの屋上に“子育て”をテーマにした広場を作るという企画に関わってくれないかと話がありました。そこで、オープニングイベント3daysのうち最終日の1日だけを自由に任せてもらうことになったのですが、予算は0。
ただ、その日は5月5日だったので、「こどもの日にこの街で何ができるだろう」と、“子育て”関係のサークルや団体に声をかけ、代表10数名を集めて会議をしたのですが、なかなかまとまらない。そんな中、とある団体の代表が「いてくれるだけでよくないですか?」と言ったんです。その一言で方向性が決まりました。子どもの日に、大切な人のことを想い表現する1日にしようと。

それが、4年前に始まった「ソラフェス」です。文化祭のように、工作ワークショップや、ファッションショーなどを、各チームでやったところ、ビルの屋上に1日で1500人もの人が来てくれたんです。そうするうちに、その一年後には広場に付随する「SORA-IRO CAFE」の運営に関わることとなり、「ソラフェス」も継続して開催しています。

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そのほかに関わっているプロジェクトについて教えてもらえますか。

関わっているものはいくつかあるのですが、『visionAreal(ビジョナリアル)』を立ち上げた2012年は、パパがラフに集まれるコミュニティ「パパラフネットくるめ」のコーディネーター、協働CASEプロジェクト事業コーディネーターなども担当しました。また当時、資格や技術を持つママたちから面白いアイデアを多く寄せられていまして、この力を街にくっつけるとおもしろいのでは?と。そんなママたちの場所が必要だと思い、中村路子(現visionAreal社 共同代表)とコワーキングスペースを作りました。といっても、築45年のボロボロのアパートを右も左も解らずプロからアドバイスもらいながら一つ一つ自分たちの手でリノベーションしてのスタートでした。
それが、Mellicore co.working mama space (メリコアコワーキングママスペース)です。今は、場所というよりもコミュニティのようになっていますね。そこから女性と街の可能性をコーディネートできる人材の創出を、各事業で行っています。

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「悔しいなと思う人同士が集まった」プロジェクトとは。

2014年に動き出した、久留米街向上プロジェクト「CHIETSUKU,Pjt」という活動がありまして、各エリア、各ジャンルのキーパーソンが集まり、「お互いの知恵をくっつける」というものです。私は、“親と子と、まち。”をテーマに活動してきたのですが、30〜40代の近い世代には、ほかの分野で「悔しいな」と嫉妬してしまうほど活躍している人が多くいます。久留米絣デザイナー、リノベーター、不動産、お父さんの団体を主宰している人などなど。そして、「この街で みんなで 食っていくんです」をキャッチコピーに、実際に県外で、じぶんのまちで食べていけている、40〜50代の先輩たちをお呼びして講座を開き、自分たちが一緒に食べていきたいと思う仲間達を呼んで、話を聞き、学び、知恵の共有をしています。このプロジェクトの一環で久留米移住計画も行なっています。

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さまざまなカタチで関わっている久留米の街、今後どうなってほしいですか?

小・中学校の時、街で自分がしたいことをイキイキとしている人達を見てきました。今では、アパレル・スニーカーショップやデザイナーや美容室などの先輩たちですね。彼ら彼女らは、自分たちがやりたいことを自分の街を拠点にして、自己実現しています。自分がやりたいと思えるものごとを街にもってきて叶える、そんな街にしたいです。それは、自分サイズで良くて、人と比較するのではなく、自分なりのやり方で完結させるといった感じで。そんな自己実現がいっぱいある街になったらいいなと思います。

そして、それをするのに、久留米という街はちょうどいいと思います。人口30万の中核市も、歩いて5分、自転車ですぐのところに緑が広がる自然があるというのも。その環境が気持ち的にゆとりを生み、悪く言えばゆるいのかもしれませんが、ちょうどよく感じています。皆さんの自己実現が束になった時、街づくりは結果としてついてきて多方面の課題解決に繋がっていくのではないでしょうか。

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Photo_大林直行(101DESIGN)、Edit_Text_多田真文(REDACTION)