金剛住機(株) 取締役

木村 大吾

1977年 山口県・下関市出身

1996年、山口大学工学部感性デザイン工学科入学、2000年に同大学院理工学科へと進み、建築巡礼のため1年間休学しアメリカをバックパッカーで旅する。2003年、(株)現代計画研究所に入社し、広島と東京で勤務。2007年、Uターンし家業の金剛住機(株)へ。2011年、Remonosekiプロジェクトをスタート。2015年、築42年の老朽化したビルを改修しゲストハウスなどが入るUZUHOUSEプロジェクトに参加し、施工・内装などを手掛ける。
http://remonoseki.com/ http://ameblo.jp/yutorio/


山口県・下関は、古より海峡、港の町として人々が行き交い栄えてきた。その地で代々続く建築・施工会社に籍をおきながら、自分の住む街を楽しく、面白い町へと建築の視点を生かしながら“街づくり”にも取り組む、金剛住機の木村大吾さん。今回は、木村さんも携わった本州最西端にあるゲストハウス「UZUHOUSE」にて、建築を目指したきっかけ、東京からUターンしてきてからの活動について、話をしてもらった。

 

まずは現在の仕事内容など教えてください

地元・下関で60年ほど続く、金剛住機という会社で建築の設計・施工をしています。リペア、リフォーム、リノベーションを大切にし、特にリペア(修理)をきちんとしていくことで、地元のお客さんの信頼を頂いております。個人的には、新築の時代ではないと思っていまして、古くからあるものをどう生かすかなど、リノベーションにも力を入れています。ただ、下関など地方において、そういうことを専門にデザインしたり、魅力を引き出したりする人が少ないので、そのあたりの取組もしていかないと思い活動中です。

会社の肩書は取締役ではありますが、代表は父がしていまして会社全体の経営などはしていませんので、おかげさまで自由に動かさせてもらっています。今のうちに、多くの人と会って、いろんな仕事をして、名前を知って頂いて、自分の代になったときに、いい若い人材を集めて経営にまわれたらと思っていまして、今は準備段階でもあります。

 

建築関係の道へと進もうと思ったきっかけは?

実家が、そういう会社だったということもあり、早くから建築に興味がありましたし、好きでした。仕事として意識し始めたのは、大学院を卒業するころでしたが、当時は自分にセンスが感じられず、また地方の大学でしたし、自信がなく、東京の大学などの将来的に有名になっていくだろう人達にはかなわないなと思っていました。その時に、下関生まれの僕にしかできない建築って何かなと考えだすようになり、“町医者みたいな建築家”になりたいなと思うようになったんです。

 

大学の話が出ましたが、どんな学生時代だったのですか?

高校生のころ、親から「これ以上学力が伸びないと思うから、浪人するくらいなら、まず大学に入って1年間は休学して旅をするなど、そういうことに時間を使いなさい」と言われました。今までの自分にはない考え方だったので感動して、そうすることにし、山口大学に新設された感性デザイン工学科へ進みました。学生時代、有名建築のあるフランスやイタリアなどには訪ねていましたが、大学4年を卒業して、大学院に入ったところで1年間休学し、半年間バイトしてお金をため、残りの半年を憧れていたバックパッカーとして旅に出ました。

何かどこかを一周したいという想いがあったのと、フランク・ロイド・ライトの滝の上に建っている家、落水荘が見たかったのでアメリカへ。ほかにもルイス・カーンなど行ってみたいところが多く、ロサンゼルスから入って南回りで東海岸まで行き、西海岸まで88日かけてまわってきました。1日1人友達を作ろうと決めていたのですが、旅が終わってアドレス帳を見ると、ちょうど88人の名前があり、今でもつながっている人もいますよ。それから当時は、インターネットが発達していなかったので「地球の歩き方」を頼りに旅をし、今で言うところのゲストハウス(ユースホステル)に泊まっていたので、多くの人に出会うことができました。

3368_1000

就職氷河期にも関わらず希望の職場へ!?

大学院を卒業する2003年は就職氷河期の最後の年と言われていました。しかも、1期生の学科だったので先輩の就職実績もなく、何をやっていいのか分からず、特に就職活動はしていませんでした。学生時代から現代計画研究所の今井さんを慕っていまして、アルバイトさせてもらうなど4年間ほど通っていましたので、「お願いします!」と頼みこんで、何とか入社することに(笑)。そして、広島と東京に事務所があったので、いつかは東京に行きたいなぁと思っていたところ、広島の景気が下がった時、社内的に東京へシフトするタイミングがあり、入社1年半で東京に行くことができました。

 

就職した現代計画研究所での仕事を今につなぐ

広島では個人住宅をはじめ木造建築の仕事などに携わり、東京では地区プロジェクトや市庁舎などのコンペ案件をはじめ都市計画や建築設計の仕事もし、Uターンする前の最後に担当した医師会館増改築工事の設計、現場監理は、今、大切にしているリノベーションにも通ずるものがあり、その時の経験が生かされているように思えます。

 

Uターンするきっかけを教えてください

当初、7年はいるつもりで入社しました。4年間は修行させてもらい、次の3年間は奉公といった感じで。元々、実家を継ぐつもりはなく、独立して下関で設計事務所をやってみたいなとは思っていたんですが、父の会社が人材不足など様々な問題を抱え大変な時期を迎えていまして、帰ってきてほしいと連絡があり、このタイミングでしか親孝行ができないかなと思い29歳の時に戻ってきました。入社4年で去ることとなり、もう少し東京で設計の仕事をして一人前になりたかったので、全てのことに中途半端な感じがしていました。振り返ると結果的に良かったのですが、バリバリ設計や施工ができるわけでなく、中途半端な部分を多くの人にサポートしてもらえているので、全体を見ながら進行させていくというポジションにつけているように思えます。

3379_1000

下関に帰ってきて気づいたこと

高校生までしか下関にいなかったので、知らないところもあるなぁと思い、散歩しながら町を見て回ることにしました。そうすると、海のイメージの強い下関ですが、石垣のキレイな丘があるなぁとか、下関駅より西側には古い建物が残っているエリアがあるなぁとか見えてきたんです。それから、駅の東側の海沿いは観光客が多く来るのですが、市民はあまり行かないので、海側で地元の人が楽しめる場所ができないかなぁと思っていました。

その散歩を一回り上の世代の前村さんという方としていたのですが、その方が取り壊し予定のある廃校・旧小野分校で喫茶をしたいと言われていたんです。なんとか、建物を使いながら残せないかと、その学校の存在や価値を知ってもらうため、「おのプロジェクト」として写真展やワークショップを3年ほど開催しました。想いが通じ、取り壊しはなくなり喫茶室もできるようになったんです。それに関わらせてもらい、自分は誰かが何かをしたいという時に、建築のスキルを使って手伝いするという形がいいなと思いました。

 

その後、新たなプロジェクトへとつながる

2011年に、「おのプロジェクト」を引き継ぐような感じで、その時に出会った仲間と一緒に「Re monoseki project」を始めました。「Reuse (リユース) 」「Redesign(リデザイン)」「Renovation(リノベーション)」という3つのReをテーマに建築というアプローチで街づくりをしていこうというプロジェクトです。始めた大きなきっかけは子供が生まれたことでした。それまでは、妻と二人だったので遠くへ外出する機会が多かったのですが、子供を授かり下関で過ごす時間が今までよりも多くなり、自分が楽しめる場所を作りたいなと思ったのと、子ども達にとっての故郷になる町なので、自分のようにUターンしたくなるようなところにしたいなぁという想いで。

そして、地方には空き家や古い建物が多く残っているのでリノベーションというのが自然な流れかなと思っていまして。下関にも、古くて良い建物があるのですが老朽化ということで壊されている現状があります。東京駅を設計した故・辰野金吾さんが手がけた旧山陽ホテルが、数年前に解体されたんですよ。あれは残るだろうと思っていたものがなくなったので、こういうこともしてしまう町なんだなと感じ、これもきっかけの一つではあります。対岸の門司は、古いレンガ造りの建物も残っているんですが、下関に残っていたレンガでできた倉庫などは解体され、新しく建てた施設にはレンガの雰囲気を用いてノスタルジックな感じを出すといったデザインに、疑問を感じていました。

3431_1000

学生時代に利用したゲストハウスを作る時が来た

東京で活躍する下関出身の建築家・沖野さんを中心に、ゲストハウスやシェアオフィス、カフェなどが入る複合施設を下関にある老朽化したビルを改修してオープンさせる「ウズハウスプロジェクト」という動きがありまして、そのプロジェクトに、山口にゆかりのある安倍昭恵さんも参加されていたんです。そして、安倍さんと親交があり、自分も面識のある山口県の長門で自給自足している方が「昭恵さんが、下関でゲストハウスをしたいんだけど、地元で動ける人を探している」と、自分に声をかけてもらいました。それが、2015年の春頃でした。

学生時代、バックパッカーをした際に利用していたということもあって、いつかゲストハウスを作ってみたいと思っていましたし、面白そうなプロジェクトなので参加させてもらいました。ただ、お金がかけられないだろうから施工には関わりたくないなぁと思っていたところ、施工を担当することになりました(笑)。でも、楽しいプロジェクトにはお金がないことが多いので、お金を使わないノウハウが建築をやっていると分かるので、“ここはDIY”、“こうすると安くなる”みたいなことをプライベートの時間を使ってやっていました。でも、それが楽しいんですよ!

Uターンして戻って来た時は、私(木村大吾)が何者で、何ができるのかを誰も知らいないので、設計の依頼もなく、クリエティブな案件もなく、3年くらいモヤモヤしていたんです…。だから、さまざまな活動を少しずつ続けてきたことがカタチになりはじめたというのもあって嬉しかったです。

 

建築という視点で地元・下関がどうなっていってほしいですか

建築は手段の一つであって、建築では出せない答えもあるので、新しく建築を作らなくて済むのであれば、それはそれでいいと思っています。昔からある良いものも沢山あるので、それがうまく生かされて、場ができ、空間ができるというところまでは建築として関われるのですが、そこから先、どういう空気が作れるかが大切なので、いい建物や建築だけではなくて楽しそうな空気が流れている場所が増えていってほしいですし、作りたいですね。

3517_1000

Photo_大林直行(101DESIGN)、Edit_Text_多田真文(REDACTION)