株式会社グライダーアソシエイツ COO

荒川 徹

1981年 山口県光市(旧熊毛郡大和町)出身

2007年、早稲田大学大学院商学研究科修了。同年、株式会社マクロミルへ入社。事業会社リサーチ営業を6年担当。その後同社経営戦略室で北米事業担当などを経て、2014年1月に株式会社グライダーアソシエイツへ。同年4月に取締役就任。現在、キュレーションマガジン「antenna*」(アンテナ)のブランドマネジメント、セールス、プロモーション施策、各種アライアンスなど、事業の全体を統括している。
https://antenna.jp/


ユーザー数550万人、提携メディア数300を抱えるキュレーションマガジンantenna*。スマートフォンをメインに信頼性・芸術性に長けた良質なメディアのコンテンツを1日1,000以上配信している。また、ユーザーが実際に体験できる場の提供もしている。今回は、このantenna*を運営する株式会社グライダーアソシエイツ社を訪ね、取締役荒川徹さんにインタビュー。antenna*に関わることになったきっかけや事業内容、現在のメディアの状況や出身地山口に対する想い、これから働き方やヴィジョンについてお話をお聞きしました。

 

まずは、株式会社グライダーアソシエイツの事業内容を教えてください

事業自体は2012年に開始しました。「伝える」と「知りたい」をしっかりと発信できるプラットフォームとして存在していこうというヴィジョンを掲げています。また、「世の中に存在する数多くの本物ストーリーを届ける」ということも軸として行っています。これは、昨今のメディアの消費態度や生活者側のメディアに対する変化に伴い、メディアの発信しているコンテンツと消費者の距離が遠くなっていたり頻度がすごく希薄になってきたりしていると思うんですね。すごくいい企画であっても、なかなか知ってもらう機会がなく、またテレビであれば視聴率という数字によって判断されて継続ができないなど、メディア側では「伝え方」で悩んでいるケースが数多く存在しています。

一方、生活者においては、昔は四大マスメディアの力が圧倒的だったので、番組の内容と広告がパッケージセットのようになっていて、それを受動的に受け取ることが多かった。しかし現在はコンテンツがパーツ化し、Webメディアの台頭により、PCやスマートフォンでコンテンツを受け取ることが当たり前の時代になりました。また、SNSの発達、普及によって、プロではないアマチュア、大して技術を持たずとも個人レベルでのコンテンツ発信も容易になりました。情報のクオリティや精度も様々に乱立して飛び交っています。こうした情報流通の構造がかなり変化し、そして複雑化してきている中で、「これを届けたい」というメディア側の想いも埋もれてしまっている状況です。

しかしながら、やはり後世に残すべきコンテンツや企業の広告はあると思います。そこで、我々が面白いと思ったものや本物だと感じたもの、つまりは高品質で信頼できるプロの作品に関しては、しっかりとキュレーションして届けていきたい。それを様々なメディアさんや広告主と一緒に挑戦していくことをミッションにしてやっています。

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社内での荒川さんの担当する業務領域について教えてください

弊社の業務領域を大きく分けると、管理部門、広告主と向き合う営業部門、メディアと向き合う編成部門。最後に開発部門という構成になっています。その中で私は営業部門と、管理の中でもantenna*のブランドマネジメントとアライアンスを統括しています。

 

antenna*に関わるきっかけを教えてください

まず2007年にインターネットを活用する市場調査会社、株式会社マクロミルに入社しました。マクロミルの時代は5年近くテレビ局の視聴者アンケートや営業の仕事をやっていて。その後、経営戦略室というところに異動になり、そこではアメリカの調査会社の事情やヨーロッパのマーケティングリサーチの現状など、コンテンツ収集を専門とする部門にいました。

そんな中、2013年の暮れにひとつの新規事業を始めることになりました。全社員の前でプレゼンをしたので当然その責任者になると思っていたのですが、それが終わったら社長から「お前antenna*に行くぞ。」と言われまして。当時、マクロミルの新規事業としてはじまり、別会社となっていたantenna*へ出向となったのです。antenna*ってよく知らないんですが‥」っていう状態だったんですけど(笑)。そういった経緯で、2014年1月からantenna*に関わるようになりました

 

どういった過程を経てantenna*は現在のように成長したのでしょうか

antenna*に参加した当時、社員は10名。まだユーザーも100万人前後の状態でした。広告主も数えるほどしかいなかったと思います。とにかくやるべきことが多かったと記憶しています。ベンチャーだったので、社内のありとあらゆるところを整え始め、提携するメディアさんとの関係性をより強化していきました。また、その一方で広告の収益を上げていこうと進めていく中で、レクサス様(トヨタ自動車が展開している高級車ブランド)などがスポンサーに付いて頂きました。

デジタルマーケティングの世界って、CPCやインプレッション、コンバージョンといった特有の言葉があり、最初は本当に知識がなくわからないことだらけだったので、メディアさんにも代理店さんにも広告主さんにも怒られてばかりでしたね。なので、そんな中レクサス様をはじめとして、様々な企業様がスポンサーに付いて頂けたことにはとても救われました。時にどうしたらいいのか相談をさせて頂き率直な意見を頂いたりしながら、徐々にスポンサーに付いてくださる企業も増え始め、三井不動産レジデンシャル様や星野リゾート様などが付いてくださり、会社としても売り上げが伸び始めました。

最も大きい転機となったのは、レクサスの宣伝部長様と昨年4月にあるイベントで一緒に対談させて頂いたときのことが大きいと思います。その時に、その宣伝部長様が「ブランドとは(ブランディングやメディアとの関わり方を)こう考えるべき、それに対しantenna*はこういうヴィジョンや信念でやっている」というのをご自身の言葉で発言してくださったんです。そして、それを受けて他の外資の自動車メーカー様やたくさんのお客様より一斉にantenna*に発注してくださる流れが起きました。本当に有り難い限りでした。同時に、ブランディング施策の流れでJ・WAVEなどラジオ番組を始めたり、タレントのローラさんを起用したTVCMを流し始めたりと気運が高まっていて、売り上げが上がると経営として色々な意思決定ができるようになってくるので、本当に先の見通しが立てられているのか不安と葛藤の毎日でしたが、様々な方に助けられながら今に至ると強く感じています。その当時、特に助けていただいた方々の期待にこたえられるよう、会社としての成長に日々邁進しているところです。

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本質やブランドができあがる背景を伝えたい

どんな企業においても、ひとつのブランドを生み出すまでには、たくさんのヒト・モノ・カネというものが動いていると思います。企業側から「何か新しいものを作りたい。」という提案はよく受けますが、まずは「今まで制作したコンテンツが何かありますよね?」と尋ねるようにしています。何かしら、タイアップ記事や取材された写真や動画など、絶対にあるはずなので。それをしっかりと掘り出してきてもらいます。何をやっても好きな人というのは勝手に見て知ってくれますが、そうではない潜在層へはどのように訴えていくのか、というのが課題ですね。

顧客を育成するというキーワードは今どの業界にもあることだと思いますが、企業の良さを伝えるためには、もっと裏側を知って貰うにはどうしたらいいのか。過去のものでも本物だと感じるものは積極的に取り上げていきます。それらを再度伝えていくことで、「昔これ見たなぁ。」とか「これ好きだったな。」という、その当時感じたワクワク、ドキドキした生の感情がユーザーの間に再度生まれるきっかけに繋がります。

また、発信する情報はデジタルではあるけれど、受け取り側はあくまで人なので、画一的なアルゴイズムに依存しないように、手作り感というものを大切にしています。そういったところをユーザーに感じて貰うために、antenna*の記事は実は一部手作業で設定しています。「編成」という考えのもと、月曜の夜は少し真面目に仕事について考えるとか、金曜日は週末に向けて旅だったりデートだったりと、生活者のリズムに合わせて適切な記事が出るように手掛けています。また、ひとつのキーワードに対してもたった今出てきた記事、1ヶ月前、場合によっては3ヶ月前の記事も並列して出る仕組みになっています。これは一度過ぎ去ってしまった記事って、その後なかなか陽の目を見る機会ってなくなってしまうと思うのですが、そのとき何かの事情で目に触れられてなかったとしても、繰り返し出していくことで面白さが伝わることもある、という考えから記事の新旧にとらわれることなく扱っています。

 

体験価値を大事にする

我々は表参道にカフェ(東京・南青山にあるコミュニティ型商業施設「COMMUNE246」内に「antenna*‹ ›WIRED CAFE」というコンテンツ発信型カフェをオープンしている。)を持っていますが、そこでは様々なユーザーが実際に体験できるイベントを開催しています。antenna*を見て「これ面白そうだな。」、「これいいな。」と思ったとしても、antenna*を見ているだけでは、その熱量が高まるだけで終わってしまいますよね。antenna*のユーザーにインタビューをすると「antenna*を見ると趣味が広がった。」、「この裏側がわかった。」など表面的ではない部分をユーザーも求めている、そんなお声をたくさん頂きます。そういったこともあり、リアルな体験をして貰うことで一生忘れることができない体験価値に繋げようと、そう考え企画展開をしています。企業とファンが直接深く繋がっていく場として今後も展開していきたいですね。

冒頭でも申し上げたように、今はコンテンツを得る機会が複雑化しているので、何かを認知して興味関心を持ったとしても、なぜそのブランドがいいのか、名前は知っていてもその先にある具体的なイメージがどんどん希薄化してきていると思います。そこの部分を我々が関わることで、基本的なコンテンツは出しつつも、イベントをやることで一気に気持ちを高めていきましょう、と持っていっています。ブランド自体を知って貰うことがゴールではないので、ユーザーの感情を動かしながら、企業の商品が開発されるまでの背景やどんなことをやっているのかということをユーザーに届く言葉に変換させている、といった感じですね。

 

東京に出てこられたきっかけや学生時代のことについてお聞かせください

大学が早稲田大学だったので、進学をきっかけに上京しました。それまでは、今は光市になっていますが、熊毛郡大和町というところで育ちました。高校で受験をしようと思って勉強していたときに、当時の担任から「早稲田への指定校推薦の枠があるから、荒川も申し込んでみたらどうだ?」と言われまして。ずっと部活もやっていたし、優秀な同級生はたくさんいたので、たぶん無理だろうと思いながら出してみたら「荒川決まったぞ。」となり、そこから180度ガラっと変わりました。僕には兄が二人いて、二人とも関西の大学に進学していたので、関西ってだけでもカッコイイな、キラキラしているなと思っていて。自分も関西に行こうと考えていたのに、早稲田に決まったのでいきなり東京となって。東京なんて言ったらもう想像がつかないわけですよね。上京当時はもう完全なるお上りさんでした(笑)。

18歳のときからの仲間とは未だに飲みに行ったりしますが、僕以外はみんな東京出身で。僕が本当に喜ぶものだから、浅草やフジテレビなど、色々なところに連れて行ってくれました。全てが目新しくて、どこに連れて行っても楽しそうに騒ぐものだから、仲間も面白かったんだと思います。一番笑われたのは、牛丼の松屋に連れて行って貰ったときに、その美味しさに感動して「何時までやっているんですか?」と質問したときのこと。「いや、これチェーンだし、24時間営業って書いてあるだろ?」って(笑)。「え?凄いね。どこにでもあるの?」って感動しました。大和町って最近になるまでコンビニすらなく、全部が個人商店だったので。そういうところで育ってきたので、最初はチェーンという概念すらわかりませんでした(笑)。

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上京後、人生観の変化や影響を受けたこと

それまで方言ってあまりないと思っていたのですが、引っ越しの日に引っ越し業者さんに電球を取り付けて貰うのに「それ、たいますか?」って言ったら、「え?何言ってるの?」って通じなくて。「たう」っていうのが方言だったということをそのとき初めて知りました。あと「ぶち」っていうのも方言だったと知らなくて、初日に結構ショックは受けましたね。あとは「笑っていいとも!」って大和町だと夕方に放送していたんですね。でもオープニングに流れる「お昼休みにウキウキウォッチング」っていうのが小さい頃からずっと意味がわからなくて。上京してきて「え!?お昼にやってる!!」と驚きました。あとは「スマスマ」とか3ヶ月、4ヶ月遅れで放送しているのが当たり前だったんですけど。よく、もう春なのに「メリークリスマース!!」ってやっているんですよね。みんなでそれを話題にしていたのに、東京では当たり前ですがオンタイムにちゃんとやっていて(笑)。

東京で体験する全てが嬉しい、楽しいと感じていましたし、田舎出身者って幸せのハードルが低いですよね(笑)。知らないから興味を持つ。わからないから理解をしようとする。なので、もしずっと東京で育っていたらどういう人生だっただろうな、と、今自分の子どもを見ていて少し葛藤を感じることもありますね。田んぼもないですし。

 

故郷山口への帰省

子どもが生まれる前、奥さんと結婚した当時は年に1、2回、お盆と暮れにという感じでした。1年半前にずっと実家で同居していた父方の祖母が亡くなりまして。その祖母が倒れて入院していたので、必然的にお見舞いに行く機会が増えたというのと、今は実家に両親しかいないので、田植えや畑や山の手入れなど手伝うために最近は年に4回は帰るようにしています。これからも意識的に帰る機会は増やそうと思っています。

 

お子さんのお話が出ましたが、ライフスタイルが変わったことで山口に対する想いなどにも変化はありましたか

ありますね。変な話ではありますが、山口に帰ると自分の気持ちが一旦リセットされるようになりました。さっき話したように、上京した当時は全てがこうキラキラしていたな、というのを思い出します。帰省するときは、いつも徳山から岩田という方面に乗って帰るのですが、風景が何も変わってないんですね。「あの店あるな。」、「あのボロボロの家まだそのままだな。」っていうことを思いながら、そういうことがまたいいなと感じるようになりました。駅に着いても何も変わっていない、まるで時間が止まっているような感じがとてもいいですね。今となっては、“変わらない”ことへの価値というか、大切さも感じています。

 

いつかは山口へ

弊社社長ともよく話すことではありますが、将来的には山口へ帰りたいと思っています。実は大学卒業後JR西日本に就職したのですが、わずか1年少しで辞めてしまい、再び東京の大学へ行き、今は東京で働いています。一度、実家の近くで働いていたのに、再び東京へ挑戦させてもらっている。そう思うのは、先ほど話に出した祖母が亡くなったことがかなり大きく影響していると思います。僕は東京と神戸で働く兄が二人いて末っ子なので、田舎の考えでいくと末っ子さんはどうぞご自由に、という感じなんですよね。それもあってか祖母は生前「帰って来い。」といったことを一切言わない人でしたが、お通夜のときなど近所の人に「実は、JR西日本にも就職していたし、おばあちゃんは僕にすごく戻って来て欲しかったじゃないか。」ということをすごく言われました。田舎の人なので、憶測もだいぶあるとは思いますが、そういうことを聞いているうちに、若いときに祖父を亡くして女手一つで今の家を守ってきた祖母の想いなどを考えるようになり、この家も古びてきたし直さなきゃいけないな、とか、何よりもお墓を守らなきゃいけないな、ということを強く思うようになってきました。孫が3人とも家を飛び出している状態は、よくないなと感じています。

あとは大和町が合併によって光市になり、地元から「大和」という文字が消えていったんですよね。それは結構何とも言えない気持ちになりました。こういった気持ちは時間が経てば経つほど想いを馳せると思います。
また、最近になって、山口で事業をやっている方とお会いしてお話を聞く機会が増えまして、そういったところからも触発されているのかもしれません。今は現在置かれている場所でやるべきことがあるので、具体的にいつ、ということは明言できませんし、単純に戻るだけでは意味がないと考えているので。何かしらの事業ができるように、いつか実家をリフォームして事務所兼自宅のようにするのか、もしくは本拠地は東京のまま、山口と東京を行き来するのかもしれませんが、何かしら働く理由を作って、それを形にしていきたいと考えています。

 

今後の働き方についての想い

技術の進歩もあり、東京で生活しながら働く必要性は今後なくなってくるのかな、と感じています。また、僕のように地方から東京に出てきているけれど将来地元に戻りたいと思っている人や、高齢化や過疎化などの問題も含めて今後地元がどうなっていってしまうのだろうと葛藤している人というのは一定数いると思います。そういう人たちは地元に戻り始め、地元ならではのビジネスであったり、地元と海外と結びつけていったり、地元の大学や企業のために貢献する動きが、今後もっと増えてくるのではないかと思っています。

地元の大企業に勤める、地元の行政や自治体で働くという王道の働き方もありながら、働く場所やこれまでの既成概念にはとらわれない多様な動きが出てきて欲しいと思いますね。そうすることで、町が廃れて消えていくといったことに歯止めがかかることにも繋がっていくと思います。田んぼに大きなスクリーンを持ち込んで、田植えをしながら「はいはい。」と言って会議をする。そんな働き方もあり得るかもしれないですね(笑)。地元の土を直接触って踏みしめて匂いを感じる。そういうことから感じられることを忘れずに大切にしていきたいと思っています。

東京での暮らしはとても良い時間なのは間違いありません。「仕事に生きる」ということでは、とても有意義で刺激が溢れている。ただ、「暮らしと共に生きる」と言うべきか、あの山口での時間、生活、これも自分の中には必要不可欠であることも間違いありません。なので、私は私らしい働き方を追求していきたいと思います。
そして、何よりも自分の家族や仲間にも、その時間や過ごし方を一緒に大切にしていきたいと思います。

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Photo_大林直行、Text_石本雄士(101DESIGN)